ぼくたちがツクルものは・・・

いま「アジャイルラクティス」という本を読んでいます。

アジャイルといって思い出すのは(ぼくにとっては)エクストリーム・プログラミングです。いまだにアジャイルってのが何なのかよくわからないんだけれども、はじめてエクストリーム・プログラミングを呼んだときの感動は忘れられません。いまでもプログラマーをやっているのは、ケントの言葉に出会えたことが大きいと思います。

言葉は違うけれど「アジャイルラクティス」は次のように言ってます。

開発がアジャイルであるということは、協調性を重んじる環境で、フィードバックに基づいた調整を行い続けることである


話は変わって、この本の設計に関する箇所に次のような台詞があります。

だって、橋やビルの建築プロジェクトを担当したらこうやって進めるだろう?

この台詞を読んで、ぼくは「だから詳細な設計をおこなって文書化してからつくりはじめるのは当たり前だろ?」という感じを受けました。けれども、どこか「本当に当たり前なのか」という気もするのです。(それに対する答えが、ぼくはアジャイルな開発にあると願っているんですが)ふと思いついた事があったので、メモをしようと思って書きはじめました。
#本とは何の関係も内容なんですが・・・

そもそも「ぼくたちは橋やビル(のようなもの)をつくっているの」かという疑問(いままではそう思ってました)から、「ぼくたちがツクルものは『街』なんじゃないか」と思ったのです。

街づくりにだって詳細な設計は必要だし、文書化だって必要だけれど、それは全てに必要なものではないですよね。橋やビルは壊れたら大変だから、詳細な設計なりが必要なのはわかります。けれども、朝の挨拶運動とかには詳細な設計はいらないはずです。文書だってポスター1枚あれば立派なものですよね。

アジャイルな開発は、規則やしきたりよりも人と人との交流によって「よりよい街づくり」ができるという信念なんだ。そう思うと、自分的にはすこしすっきりしたのでした。